世界100偉人伝

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世界100偉人伝 : 釈迦から湯川秀樹まで

少年科学新聞社 編(昭和25)より

底本:(著作権保護期間終了)

注意:
・作業中
・底本にはありませんが、人物毎に番号を振っています。

[1]釈迦 [2]孔子 [3]ソクラテス

 ライセンス:
本書き起こしはパブリックドメイン(CC0/PD)で公開します。


[1] 釈迦
紀元前568~488およそ生長して形をなしているものは皆無常の性質を持っている。それゆえ不滅というわけにはいかない。
(およそ生長して形をなしているものはみなむじょうの性質を持っている。、、それゆえ不滅というわけにはいかない。、、)
釈迦
むかしインドはたくさんの国にわかれていました。釈迦はインドとネパールの国境近くにあった、そういう小さな国の王子に生まれました。生まれたのは何時か? それについては五十とおりもの説がありますが、
ここにはその一つをとって紀元前568年としておきます。

彼はおとうさんが四十五のとき初めてできた王子です。お父さんはどんなに喜んだことでしょう。ところがそのうち心配なことがおこってきました。それは釈迦が人なみすぐれてあわれみ深く、このまま大きくなっていったら、
坊さんになってしまいそうなようすが見えてきたことです。お父さんは釈迦を結婚させました(十七歳)、やがて子供も生まれました。しかしそれでも釈迦の出家(坊さんになること)したいという考えはやみません。

とうとうある夜彼は(二十九歳)お城をぬけだしました。そしてまず坊さん達が苦行をしているところへ行って見ました。またえらい坊さんをたずねて、いろいろ問答もたたかわしてみました。
(とうとうある夜彼は、二十九歳,お城をぬけだしました。、、そしてまず坊さん達が苦行をしているところへいって見ました。、、またえらい坊さんをたずねて、いろいろ問答もたたかわしてみました。、、)
だが彼の頭にこびりついている問題『どうしたら人間は生老病死の苦しみから逃れることができるか』を解決できません。つぎに彼は、自分でも六年間はげしい苦行をやってみて苦行なんか役に立たないことを知りました。

最後にブダガヤにたどりつき、そこにある有名なボダイ樹の木かげにすわりこみました。『この問題をとくまでは二度とふたたび立ち上がるまい』と決心して。すわりこむこと四十九日ついに彼は問題をときました。別の言葉でいえばさとりを開いたのです。
ときに釈迦三十五歳二月八日のことと言います。それから死ぬまで、彼は自分の教えを世間にひろめることにつとめました。これが仏教です。この釈迦に、孔子、キリスト、ソクラテスの三人を加えて世界の四聖とよんでいます。
そしてこの四人は二千年後の今日もなお偉大な人類の教師としてあがめられています。

 


孔子
紀元前551~479
朝に道を聞いて夕べに死すとも可なり。
孔子

孔子は今から二千五百年前魯という国に生まれました。
その頃の中国は『春秋の世』といって、大小百いくつの国々が入りみだれてたがいに覇権を争っていました。魯もその一つで、現在の山東省にありました。
(その頃の中国は『春秋の世』といって、大小百いくつの国々がいりみだれてたがいに覇権を争っていました。、、魯もその一つで、現在の山東省にありました。、、)

孔子は小さいときから、遊ぶにも儀式のまねごとをするというような子どもでした。また誰でもよい、学者さえ見れば、いろんなことを問いただしました。こうして三十才になったころは一流の学者になり、弟子も何人かできました。しかし彼自身の本当の希望は、
学者として道をとくばかりでなく、実際の政治にたずさわって、自分の理想を実現することでした。

五十才になった時、やっとその機会がおとずれました。魯の国の総理大臣のような仕事をまかせられたのです。孔子の善政のおかげで魯の勢はだんだん盛んになってきました。これを見て心配したのが、お隣りの斉の国王です。
考えたあげく魯の国王に美人をおくりました。この計略は図にあたって魯の国王は、それから国政をかえりみないようになりました。そこで孔子はしかたなく魯の国をはなれました。大ぜいの弟子をつれて、どこか彼を用いてくれる国はないかと、
十四年間あちらこちらをさまよい歩いたのです。

あるときは食べるものにも困って弟子の一人になじられました『君子でも困ることがあるのか?』。それにたいして彼は答えました『そうだ、ただ小人とちがって、困っても悪いことをしないだけだ』。またあるとき、ある人が彼を殺そうとしたとき彼は、
『天が私に道を説かせようとしているかぎり、何人であれ私を殺すことは出来ない』といい放ちました。

やっと六十八才になって故郷の魯へもどりました。それから七十二才で死ぬまで、彼は皆から尊敬されながらおだやかに暮らしました。墓はいまもなお山東省の曲阜にあります。

あの論語という本は、ちょうどキリスト教の聖書のように、彼が死んだあと、弟子たちが彼の教えを集めて出したものです。

 


ソクラテス
紀元前四六九年~三九九年

いつわりはそれ自身悪であるばかりでなく、いつわりをいった者の精神まで悪にそめる。
ソクラテス

ギリシアは今でこそあまりふるわない国ですが、むかしこの国の文化が世界一をほこったときがあります。このギリシャの文化がローマ(今のイタリア)につたわり、それがさらに他のヨーロッパの国々につたわって、げんざいの西洋文化の花が開いたのです。

そのギリシアの文化が栄えていたころ(今から二千年前)アテネの町に一人のみにくい男がいました。顔だけ見たのではバカか悪者としか思えません。ところがこのみにくい人こそ「世界一の賢人」とうたわれたソクラテスだったのです。

父は彫刻家でした。ソクラテスは、しばらく父の仕事をひきついでいましたが、やがて哲学を自分の一生の仕事にすることにきめました。ただし哲学といっても、後世の哲学者のように、本を書いたり、学校で生徒を教えたりしたのではありません。

彼の日課は、朝早くから、上衣も着ない、くつもはかないみすぼらしい姿で、アテネの町の広場へ出かけ、彼のまわりに集まる大ぜいの人を相手に、得意の問答をたたかわすことでした。

こうして一人でも多くの人を正しい考え、正しい行いにみちびこう、というのが彼の仕事でした。そして彼自身は「人が悪いことをするのは無知のためだ。知ることこそ徳のもといだ」とかたく信じていました。

彼にも敵はありました。その敵にはかられ、彼は死罪に問われました。裁判所での答弁のしようによっては、助かる見込みもありましたが、彼は最後まで自分の信念をまげませんでした。そればかりではない。一旦死刑と決まってからは「法律によって決まったことは変えるべきではない」といって弟子たちの助命運動を退け、その頃の死刑のしきたりどおり、平然と毒を仰いで死にました。

彼の弟子にプラトー、そのまた弟子にアリストテレスというえらい哲学者が二人続いてでました。