世界100偉人伝35 伊能忠敬

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伊能忠敬

一七四五 – 一八一八
目上の人はもちろん、目下の人にても教訓異見あらば、きっと相用い、かたく守るべし。 忠敬
忠敬は徳川八代将軍吉宗の延享二年、上総国(いまの千葉県)坂田郷小関村の農家神保利左衛門の三男に生れました。

神保家は土地の名家でしたが、忠敬は三男であったため十八才になって佐原の伊能家の養子になるまでは、親類縁者の家をあっちへいったり、こっちへいったりあまり幸とは言えない境遇でした。

この時代のことでわかっているのは彼が子供の頃から数学が好きだったことです。
商人である伊能家をついでからは、好きな学問は二のつぎにして、彼は家業に専念しました。そして寛政六年、家業を長男にゆずると、はじめて自由な体になり、多年の希望であった江戸へ出て勉強することにしました。彼はまず、天文学では当時第一人者であった高橋至時に弟子入りして歴術を学ぶことにしました。このとき忠敬五十一才、先生の至時は三十二才でした。いっぽう忠敬は、そのころとしては思いきって高いお金をはらって、いろんな新式の計測器を買い入れ、江戸の自分の家で天体観測を実習しました。こうしていっしょうけんめい勉強した忠敬は、いつの間にか数多い至時の門弟中第一流の測量家になっていたのです。

そのころ北海道近海に、しきりにロシアの船があらわれて、わが国が制止するのもきき入れず燃料や水をもとめて上陸するという事件がおこりました。

幕府はこれにそなえるため、どうしても北海道の地図を作っておく必要を感じ、このことを至時に相談しました。至時は測量技師としてさっそく忠敬をすいせんしました。

やっと忠敬が日ごろの力をふるうときがきたのです。彼は寛政十二年(五十六才)江戸を出発百八十日を費やしてエゾ地の地図を完成しました。

これがきっかけとなって、文政元年七十五才で死ぬまで、彼は十八年もかかって、あらゆる困難とたたかって、日本全国を測量し、あの有名な輿地全図を完成しました。

忠敬のこしらえた地図の正確さには、これを見た西洋人もびっくりしたといわれています。

「世界100偉人伝」